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2020年8月9日 年間第19主日 「神との出会い」

fr.田中信明OP
朗読:[鷁上19:9-13、▲蹇璽9:1-5、マタイ14:22-33

 6月21日に間隔を保ち人数制限でミサが再開されてから、教会のHPに「説教」をアップしている。今まで書いてもアウトラインくらいである。「書いたもの」を残したくないからである。A4サイズ一枚におさめる作業はむずかしいときもあるが、短くまとめる面白さもある。嵐の中でまとまらないときもある。
 三つの朗読に共通しているメッセージは「神との出会い」。
 神の山ホレブに着いたエリヤが洞穴に入り、夜を過ごした。そのとき、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と主の言葉があった。主が通り過ぎて行かれたが、風、地震、火の中に主はおられなかった。静かにささやく声が聞こえた。それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った」。「アダムと女が、その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた」(創世記3:8)の場面と同様に佳い場面。神の歩みは、ささやかな声であったり、歩く音であったり控えめで、目立ったり、威圧することはない。神を経験できないような環境や状況はない。一つだけ条件がある。利己主義と自分のいる所から出向くこと。その先に「出会い」がある。エリヤは洞窟から出て、神の前に立った。大役を担ってやや孤立化していたエリヤは一人ではないことを自覚した。
 パウロは同胞(イスラエルの民)からの、神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束の呼びかけの中で宣言され予告されていたキリストを拒否していたことを「深い悲しみ」と「心には絶え間ない痛み」と嘆くが、彼のいる所から出向いて(ダマスコ近辺)、救いの歴史がキリストに焦点が向けられていたことを認識し「キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神」と「信仰告白」する。自分の「弱さ」を認め、そこから出向いて、兄弟、同胞としての「わたしがありわたしたちお互いがある」共同体の「信仰告白」は「力強い」。
 人々がパンを食べて満腹した後、イエスは山の中で一人祈る。祈りは神との出会い。その場所が山である。弟子たちは夜の「嵐」の湖を渡っていた。既に陸から離れて、舟は逆風と波に悩まされていた。「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところへ行かれた。弟子たちはそれを見て幽霊だと言っておびえ、恐怖のあまり叫びをあげた」。イエスは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と。ペトロは「あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と、答えた。しかし、強風に気がつき怖くなり沈みかけたので「主よ、助けてください」と叫んだ。これはわたしたちも同じである。困難に遭うと助けを求める。だがイエスは、困難な問題や状況を拭い去るために来るのではない。困難の中を前進するための「拠り所」となるために来られる。イエスが常にともにある確信。だから、イエスを救い主とする信仰が求められる。
 イエスはペトロに「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と問うが、同時にわたしたちも問われている。「信仰の薄い」とは、励ましの言葉であって「謙虚に自分自身を知れ」ということ。この言葉によってイエスを十分認識できるよう心が開かれた。「二人が舟に乗り込むと、風は静まった。「嵐」が人間の表面的な飾りや不安を払いのけてくれた。舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ。これは共同体の「信仰告白」である。ここに「わたしがありわたしたちお互いがある」共同体が生まれた。

2020年8月2日 年間第18主日 「分かち合ったから増えた」

fr.田中信明OP
朗読:.ぅ競55:1-3、▲蹇璽8:35-39、マタイ14:13-21

 子どもの頃、いとこの家や近所の遊び仲間の家に行くと、「よく来たね。ご飯食べてきた?」ときかれ、一緒に楽しい時を過ごした。皆さんも同じような経験があるでしょう。そこにはいつも「食べる」ことを通じて「身内」「仲間」「家族」に似た一体感があった。
 日野原重明先生は「家族とは何か」と問われ、「一緒に食卓を囲む存在。そこに血のつながりは関係ありません。食事をともにできるということ、それ自体がどんなに素晴らしいことか。僕の家族は、日々の食事を通して、僕の好き嫌いや健康状態に気を配ってくれる。これほど嬉しいことはないですね。これこそが食事をともにすることで得られる絆なのです。日々感謝の気持ちでいっぱいです。家族の食事で一体感を経験するから人を食事に誘う」と、仰られた。
 マタイ福音書の話は、わずか「パン五つと魚二匹」で五千人ほどの人が食べて、残ったくずを集めると十二籠いっぱいになった。さすが全知全能の神の子イエスさまだからできる「パンを増やす奇跡」で、雰囲気と用語が最後の晩餐、感謝の祭儀と似ているからミサを暗示していると解釈する。何かしっくりしない。「最後の晩餐」は「ただ一度かぎりですべて」の決定的な「これがわたしのからだである。これがわたしの血の杯である。わたしを記念しなさい」の聖体の制定である聖木曜日の出来事である。色々な人とのイエスの「友情・なかま」の食事をすべて「聖体の制定」と同定しては「ただ一度かぎりですべて」の意味はなくなる。
 南アフリカのドミニコ会士アルバート・ノーランは著書『キリスト教以前のイエス』で、神の国と金銭について、「らくだが針の穴を通る話」を取り上げ、金持ちが神の国(貧しい人々の国)に入るには奇跡が必要なので、全財産を持ったままでは奇跡は起こらない。続いて「金持ちの青年の話」と「金持ちとラザロのたとえ話」から『イエスが求めているのは、すべての物質的所有物を徹底して誰とでも分かち合うこと(sharing)であると「分かち合いの原理」を示し、その最善の例が「パンと魚の奇跡」であった。』と述べる。
 イエスの後を追ってついてきた「大勢の群衆を見て深く憐れみ」その中の病人をいやされた。食べる時になった。ある人たちは食べ物を持ってきていたが、持ってこなかった人たちもいた。イエスと弟子たちはパン五つと魚二匹を持っていたが、弟子たちは人々を解散させて「自分たちで何か食べ物を買いに行く」よう告げることを提案したが、イエスは「あなたたちが自分でこの人々に何か食べ物を与えなさい。」と答える。パンと魚を取り天を仰いで(食前の)賛美の祈りを唱え、弟子たちに渡し、弟子たちはそのパンを人々に与えた。これを見て、人々は自発的に「食べ物かご」をあけて互いに分かち合い始めた。皆が自分の食べ物を自分だけのものとするのをやめて「わたしがありわたしたちお互いがある」まさに「今・ここに」成立しつつある「共同体」で分かち合った。結果として皆に十分ゆき渡ってなおあまりが出たほど(増えて)いた。このように人々の心を転換させ互いに食物の「分かち合い」へ導いたのである。
 これは初代教会における「分かち合い」のあり方。「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。」(使徒言行録4章34-35節)。
 誰も貧しく困ることがないようにすることであった。「分かち合い」には共同体が必要である。イエスの動機は「大勢の群衆を見て深く憐れみ」と人々へのあわれみである。
 父である神が「契約」の相手であるわたしたちを見捨てず、わたしたちの救いのためにはいつでもどこへでも「出かけてかかわる」あわれみ深い方であるからである。

8月2日からのミサ案内

皆様お変わりなくお元気にお過ごしでしょうか。
新型コロナウイルス感染症はなかなか収まりをみせません。
6月21日から再開した「地域毎のミサ」につきましては、皆様のご協力のもと無事各グループがごミサに与ることができました。
今後もしばらく、感染リスク対策のために毎週、各グループ毎に順番に主日のミサに与っていただくことになりますが、
ご自分の所属グループが不明であったり、まだ決めていない方も多数いらっしゃいます。
その方々のために一応の目安として、各グループ割りの該当地域をお知らせしますので、
ご確認いただき、そのグループの指定日のミサに与るようにしてください。


2020年7月26日 年間第17主日 「神からいただいた宝物」

fr.田中信明OP
朗読:[鷁上3・5, 7ー12, ▲蹇璽8・28-30, マタイ13 44-52

 「断捨離」をご存知でしょう。わたしは、毎朝「今日こそ断捨離始めよう」と目覚め、 夜には「今日もまた断捨離の気持を断捨離してしまった。明日こそ断捨離」と仕事机の周 囲や部屋の中をながめ反省しながら床に就く。何十年間もその繰り返しである。
 今日の福音の箇所は、神の国(天の国)のたとえのまとめの箇所である。読みながら友 人の神父のことを思う。携帯電話もパソコンも使わず、着る物も同じような七、八枚だ け、毎月いただく謝礼で食材を求め自炊し、食事を乞う人たちを招いて食卓をともにし、 持っているのは古くなった聖書と祈りの本とノートと数冊の書籍と筆記用具と古いカバン だけという清々しい生活をしている。なぜ、そのようなミニマリストな生活を始めたの か。畑で宝物を見つけたのか。高価な真珠を見つけたのか。確かに、「見つけたもの」が あって内的な促しで神の呼びかけに応答し司祭職の召命に結ばれている。数年間司牧した 後ある日、なにびとともなにごととも距離を等しく「自由に」つき合いたいと考え、その ために「身軽な生活」を選択した小教区の主任司祭である。いつも人々の中に「宝物」も 「真珠」も見つけられると語る。それは、「わたしがありわたしたちお互いがある」教会 共同体の「共有財産」であると笑顔で語る。また、持ち物の少ない身軽な生活は、物が無 くなる心配がまったくない。あれにしようかこれにしようかの物の選択にとらわれない 「自由」が生まれ、教会の務めの合間に、人々の相談相手となり、ボランティアに出かけ、 時には自然の森を散策する。ふだん気がつかなかった周りの人たちや草花に目をとめ、心 を動かされ親しく観察し感謝の心で手を合わせる祈りの時ができると言う。物を持たない 身軽さから「他者を受け入れる場」を自分のうちにつくることに努め、人々に自発的に、 謙遜に、喜んで「つかえる自由」が彼の「日常」に生まれたのだと推察する。
 「畑で宝物を見つけた農夫」も「良い真珠を見つけた商人」も、喜んで「持ち物をすっか り売り払って買う」。「宝物」や「真珠」への執着から離れて、自由な状況で「買う」。 しかも「宝物」だけでなく畑ごと買うことで「自立」する。誰のため何のためか。「宝物」 や「真珠」の私物化や売り買いを越えた「貴い価値」を見ているからおのずと「わたしが ありわたしたちお互いがある」共同体のために。箴言2:4-5「宝物を求めるようにそれを 捜すなら あなたは主を畏れることを悟り 神を知ることに到達するであろう」。また箴 言3:13-15「いかに幸いなことか 知恵に到達した人、英知を獲得した人は。知恵によっ て得るものは 銀によって得るものにまさり 彼女(知恵の擬人化)によって収穫するも のは金にまさる。真珠よりも貴く どのような財宝も比べることはできない」と。 この知恵は聖書の知恵文学で伝承されている。神を畏れることと神を知ることでいただく 「さいわい」である。聖書で、知恵の探究者を「学者」という。「イエスの弟子」という。 「具体的出来事の対話者」である。
 神の国(天の国)はどこにあるのか。わたしたちのうちに。「すでに」イエスとともに 始まっているが「まだ」完成していない。だから、神の力(摂理・providence・はから い)を受け入れる場を「日常」で造ることに努める。固有の貴い価値をいただくだろう。 キリスト者であること、司祭であることは私的所有物ではない。人々に「つかえる」ため にいただいた「宝物」である。

2020年7月19日 年間第16主日 「神にならう・まなぶ」

fr.田中信明OP

朗読:|侶12・13、16-19、▲蹇璽8・26-27、3福音マタイ13・24-43

 歴史の中に神の国(天の国)が実現するにはプロセスがあり神の国は突然に現れるのではない。『毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかも知れない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』(30節)。これには驚く。なぜ、「刈り入れ」まで麦と毒麦の両方を育つままにしておくのか。雑草は抜くはずだ。これはすべてのものに「存在を与えられる」神だからこうされるのだろうか。ところで、成長期の毒麦は麦と似ていて擬態雑草というそうだ。根が麦とからまっていて麦まで抜くかもしれないので穂を出せば区別できるので、「収穫まで両方とも育つままにしておきなさい」ということである。主人と僕たちの「対話」で、人は現実の悪に対しても神の立場に立って将来の裁きを性急に決着すべきでないと教える。マタイ13章以外には「毒麦」という言葉は使われていない。毒は麻痺や嘔吐を起すそうで、ローマ法では、復讐の目的で他人の畑に毒麦を蒔く者を処罰したとのこと。「たとえの説明」で、たとえで予想されている「刈り入れ」のときの終末の裁きの善悪の分離に関心が移っている。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。」(37-40節)。「終末はプロセスを経て決定的な「神のおとずれ」であるのだから途中で識別せずに待て。これが神の救いで人間のはからいとは異なるやり方だ。口を出すな。麦が毒麦を将来回心させ救うというのはおごりで勝手な解釈。麦と毒麦は異なる。裁きの時に分けられる。唯一、善悪を判断し人の心を見抜く方(ローマ8:27参照)のみ毒麦の行方が分かっている。人間の見方とはちがう。」と説いているようだ。
 救いの歴史は「神と人間との契約」関係に基づいている。弟アベルを殺めた兄カインに対して「目には目を、歯には歯を」の同害報復をしなかったこと。ノアとの新たな契約。アブラハムとの契約。出エジプト/モーセを介してのシナイ契約。預言者たちの派遣。バビロニア捕囚/帰還/神殿再建/破壊。独り子イエスの十字架と復活を介しての「新約」時代であるわたしたちへの「神のおとずれ」の根底にあるのは一貫して「契約」ゆえの「神のあわれみ」「神の思い直し」(ヨナ3-4章)である。ルカの「善いサマリア人」でイスラエル人もサマリア人も同じ「律法の書」「モーセ五書」で「契約」を知っていて神に「ならう/まなぶ」憎しみを越えてのあわれみの行為。「放蕩息子」の父親も「契約」の神/父である方に「ならう/まなぶ」息子の迎え入れ。小さなからし種やパン種にも人知れずに神の国の息吹がある。「自己中心」を越えて「だれか/なにか」のためにあるから鳥や人間のいのちにつながる。子どもや小さなものの「生命力」は神の国の可能性を秘めた始まりで性急に裁いてはならない。神は契約の相手である人間を大切にされてたびたび「おとずれ」てくださった。神のはからいは常に「今/ここ」の救いにかかわる。信仰者も「今/ここ」から神に感謝し記念する。「主の死を思い(記念)、復活をたたえよう主が来られる(おとずれる)まで。」



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