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2020年8月30日 年間第22主日 「再び弟子に」

fr.田中信明OP

朗読:.┘譽潺20:7-9、▲蹇璽12:1-2、マタイ16:21-27

 わたしは現在70歳。60歳になってから数回入院し大きな手術を繰り返している。病歴を自慢するつもりは毛頭ないが、「生産的でない」「マイナス」「役に立たない」と機能だけで人間を評価し病気や死を隠そうとする社会の風潮の中であえて隠さない。病気や死は「生」とつながっていることを大事にしたい。「いのちある存在そのもの」が尊いのである。
 白柳枢機卿が尋ねてこられた時の別れ際に「わたしたちが病気を経験するのは誰か他の人のためですね」と言われたのを想い出す。病人や死者のために祈るのは病気や死の可能性がある「わたし」を含めて「あなた・彼・彼女・わたしたち」のために祈る。聖書の伝承で「神から離れた状態を罪=死」という。ドミニコは南仏で昼間各地を巡回説教し、夜を徹して聖堂で「一体、罪人はどうなるのか」と祈っていた。兄弟たちの修室に聞こえてきたと伝えられている。異端とされた人々の地に入り対話しその福音的清貧を学び、カタリ派の人々は罪人であって自身はそうではないというのではなく自身の「自己認識」からすべての人間が「罪=神から離れた死の状態」に陥ることを知っての「罪人は一体どうなのるか」と「神のあわれみ願う祈り」であった。
 最近強く感じることは「社会で小さくされた者、弱くされた者、貧しくされた者、排除された者、声を無視された者、存在すら認められなかった者」の側に立って福音を伝えるというとき、「あたかもわたし以外の誰かによって」つくられた状況に置かれた人たちとの連帯を説いたり、述べたり、書いたりしているのを目にすると「おや」と思う。一体誰がそのような状況をつくったのか。「わたしもひとをそのようにさせている側の一人である」との自覚がなく、「彼ら」呼ばわりで福音的かかわりや寄り添いを説くからさらに奇異に感じる。離れた所からではなく、人々の中に入っていったイエスの人々との「かかわり」から学ぶべきである。
 先に「あなたはメシア、生ける神の子です」と認めた(バル・ヨナの子)ペトロが「長老、祭司長、律法学者たち」三つの権力がイエスを迫害し死刑を宣告することを打ち明けられると、イエスがキリスト(メシア)であることを認めたが、苦難の宣言にショックを受け(後退する)。イエスは(振り向いて)ペトロに言われた。「サタン、引き下がれ(後ろに下がれ)。あなたはわたしを(邪魔する)者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」イエスはペトロを厳しく叱責するが、もう一度弟子の立場に戻るようにと「ゆるし」ている。「あなたは恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です」(ヨナ4:2)のヨナの回心と重なる。ペトロはイエスに「従う」のであるから「後ろ・跡」からついていくはずが、「イエスをわきへお連れして、いさめ始めた」(22節)。まるでイエスの先に立つかのように。だから厳しく「サタン、後ろに下がれ」、自分の立つところに戻れ。これは4:10「退け、サタン」と「神の国の宣教」はじめに言われたことと重なる。今は「受難の道行」のはじまりで、ローマ帝国の支配からの解放を願う政治的社会的解放ではなく、神の沈黙のうちの神の子の受難、これは人間の思いつきではない、による神から離れた人間と再び「よりを戻す」(思い直す・振り返る)時なのである。弟子の道は「言うこと」と「行うこと」の相反する道ではなく首尾一貫した道である。イエスは優しさからペトロと弟子たちに、自分を捨て(利己的・自己中心の自我を捨て)、自分の十字架(狭い道を歩み自我が消えてゆく道行)を背負って、わたしに従いなさい(わたしの後・跡をついて来てわたしと同じ方向を歩みなさい)と「再び」招く。やがて「キリストの秘義」のうちに自我から解放されて物事が(観える)ようになり、「わたしとあなた」の出会いから一つにされた「わたしたち」全体(信仰共同体・教会)で人間の罪も神のあわれみも経験する。この招きはいつもわたしたちの道行で繰り返される。


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