お知らせ
HOME > お知らせ

2020年8月23日 年間第21主日 「仕える」

fr.田中信明OP
朗読:.ぅ競22:19-23、▲蹇璽11:33-36、マタイ16:13-20

 修道会の先輩たちから沢山のことを学び今日がある。食事の時、緊張していた新参者のわたしの横にスーッと近寄って食器の重ね方を教えてくださったり、「いつも感謝する生き方をすること」とさりげなく教えていただいた。「先ほど腹を立てて申し訳なかった」と食後に部屋のドアをノックして謝りに来た大先輩。こういう人がいるすばらしいコミュニティー生活は続けたい。
 聖書の読み方も教えていただいた。「おまえは誰か」「おまえは何をしているか」の二通りに注意して読むこと。「おまえは誰か」とは同時に「わたしは誰か」が問われている。「おまえは何をしているか」は他者との競争から始まって神と競争することになり、神を自分の都合のいい舞台に連れて来て思い通りに動かそうとする。思い通りにならなかったら、「神は何もしてくれなかった」と愚痴のかたまりになる。所詮、自我の主張だ。「おまえは誰か」の読み方で「まなざし」を訓練すること。諸兄の声が響いてくる。物理的に言葉を交わすことのできる「交わり」の場ではないが、目に見えない結びつきの「つながり」である。今、わたしたちの「交わり」は制限されているが「つながり」は深めることができる。結びは解かれない。
 最初の問いかけ、「人々は、人の子のことを何者だと言っているのか」。答えは「洗礼者ヨハネ」「エリヤ」「エレミヤ」「預言者の一人」。イエスはイスラエルの預言者の系譜で愛と正義の実践を「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:33)と山上で説教した。人々は伝承の中でイエスの重要な面(かお)を的確にとらえている。
 二番目の問いかけ、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。これはその時そこにいた弟子たちばかりか、今のわたしたちにも問いかけられている。繰り返すが「イエスは誰であるか」と問うと同時に「わたしは誰であるか」と問われていることに気づくこと。これに答えるには勇気がいる。自分の生活の中にイエスはおられるか。イエスは時々思い出すだけで、どこかちがう世界で、日常には影響を与えないで、祈りで呼びかけるだけになっているかも知れない。わたしに洗礼を授けてくださった神父さんから「これからはイエスを「とも」として、神と友情関係を結ぶようにしてください」と言われたのを思い出す。50年過ぎてやっと、失敗しながら、イエスを「とも」として同じ方向を向いて歩いてるかなと顧みる。ペトロの「あなたはメシア、生ける神の子です」との答えは「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(17節)であるから形式的な条文ではない。「信仰」は与えられるのであって獲得するのではない。「求めるわたし」と「与える方」との出会いである。現実に排除され発する声に耳を傾けられなかったり、存在すら無視されている人々と「とも」にあることで人々に仕えイエスと同じ方向を向いて歩むという生き方の宣言である。「仕える人」と「仕えられる人」ではなく「ともにある」まどい・共同体・コミュニティー社会を創っていくことである。
 ペトロに与える権威は、十字架上でいのちを他者のためにささげたイエスとの「つながり」でとらえなくてはならない。受難前にイエスを「いなむ」ペトロに「天の国の鍵」を与えるが、「弱さのちから」は「支配する」ことではなく「連帯し仕える」ことであると教える。ペトロと同じような弱さを抱えたわたしたちも「誰かのため、何かのための存在である」ことを銘記しよう。のちにペトロは手紙で「僕であり、使徒である」(2ペトロ1:1)「それぞれ、授かった賜物を生かして互いに仕え合いなさい」(1ペトロ 4:10)と勧める。先輩が「神の思いは単純だよ。難しくしているのはわれわれ」と教えてくださった。「だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」(ローマ11:33)。「すべて偉大なものは単純である」(フルトヴェングラー)。



カレンダー

S M T W T F S
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
27282930   
<< September 2020 >>

最近の記事

カテゴリー

過去のお知らせ

お知らせページ内検索

powered by UGJ

このページの先頭へ