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2020年7月19日 年間第16主日 「神にならう・まなぶ」

fr.田中信明OP

朗読:|侶12・13、16-19、▲蹇璽8・26-27、3福音マタイ13・24-43

 歴史の中に神の国(天の国)が実現するにはプロセスがあり神の国は突然に現れるのではない。『毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかも知れない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』(30節)。これには驚く。なぜ、「刈り入れ」まで麦と毒麦の両方を育つままにしておくのか。雑草は抜くはずだ。これはすべてのものに「存在を与えられる」神だからこうされるのだろうか。ところで、成長期の毒麦は麦と似ていて擬態雑草というそうだ。根が麦とからまっていて麦まで抜くかもしれないので穂を出せば区別できるので、「収穫まで両方とも育つままにしておきなさい」ということである。主人と僕たちの「対話」で、人は現実の悪に対しても神の立場に立って将来の裁きを性急に決着すべきでないと教える。マタイ13章以外には「毒麦」という言葉は使われていない。毒は麻痺や嘔吐を起すそうで、ローマ法では、復讐の目的で他人の畑に毒麦を蒔く者を処罰したとのこと。「たとえの説明」で、たとえで予想されている「刈り入れ」のときの終末の裁きの善悪の分離に関心が移っている。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。」(37-40節)。「終末はプロセスを経て決定的な「神のおとずれ」であるのだから途中で識別せずに待て。これが神の救いで人間のはからいとは異なるやり方だ。口を出すな。麦が毒麦を将来回心させ救うというのはおごりで勝手な解釈。麦と毒麦は異なる。裁きの時に分けられる。唯一、善悪を判断し人の心を見抜く方(ローマ8:27参照)のみ毒麦の行方が分かっている。人間の見方とはちがう。」と説いているようだ。
 救いの歴史は「神と人間との契約」関係に基づいている。弟アベルを殺めた兄カインに対して「目には目を、歯には歯を」の同害報復をしなかったこと。ノアとの新たな契約。アブラハムとの契約。出エジプト/モーセを介してのシナイ契約。預言者たちの派遣。バビロニア捕囚/帰還/神殿再建/破壊。独り子イエスの十字架と復活を介しての「新約」時代であるわたしたちへの「神のおとずれ」の根底にあるのは一貫して「契約」ゆえの「神のあわれみ」「神の思い直し」(ヨナ3-4章)である。ルカの「善いサマリア人」でイスラエル人もサマリア人も同じ「律法の書」「モーセ五書」で「契約」を知っていて神に「ならう/まなぶ」憎しみを越えてのあわれみの行為。「放蕩息子」の父親も「契約」の神/父である方に「ならう/まなぶ」息子の迎え入れ。小さなからし種やパン種にも人知れずに神の国の息吹がある。「自己中心」を越えて「だれか/なにか」のためにあるから鳥や人間のいのちにつながる。子どもや小さなものの「生命力」は神の国の可能性を秘めた始まりで性急に裁いてはならない。神は契約の相手である人間を大切にされてたびたび「おとずれ」てくださった。神のはからいは常に「今/ここ」の救いにかかわる。信仰者も「今/ここ」から神に感謝し記念する。「主の死を思い(記念)、復活をたたえよう主が来られる(おとずれる)まで。」



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