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2020年7月12日 年間第15主日 「神の力に信頼する」

 fr.田中信明OP

朗読:.ぅ競55・10-11、▲蹇璽8・18-23、J_札泪織13・1-23

 いただいたサボテンがもうダメかなと諦めながら植え替えしたら、今は土に混じっていた雑草といっしょに復活している。沈黙のうちに、草花の「飾らない、完璧を求めない素朴な美しさ」に神のおとずれといつくしみとやさしさが運ばれてくるのに手を合わせる。
 マタイは「種蒔きのたとえ」で、神の国(天の国)と宣教の困難について教える。種蒔きの間に、道端に落ちた種、石だらけの土の少ない所に落ちた種、茨の間に落ちた種、良い土地に落ちた種と4つの「落ちた種」のケースである。イエスの解説と合わせて考えると、「種」は神の国、神とともにある幸いへ導く「みことば」である。最初の3つは「何かを受け入れない」ケースで、4つ目の「何かを受け入れる」ケースはさまざまな良い実りを結ぶ。何を「受け入れ」「受け入れない」のか。決して4通りの種の運命についてではない。パレスチナの「種蒔き」は、畑を耕しウネを作って蒔くのではなく、直接畑に種をまき散らすから、その間に周りにたくさん「落ちる」。あとで耕して土をかぶせる。収穫はかなり少ない。したがって、メシアによってイスラエルが回復され、大地は祝福され何千倍もの実りをもたらすと期待された。
 「たとえ」には、比喩、倫理的格言、ことわざ、寓喩などの広い意味があり、さらに「なぞ」を意味する。イエスのたとえ話は、聴いて理解しようとする者には天の国の秘密が開示されるが、理解しようとしない者には「なぞ」である。福音書で注釈つきの「たとえ話」はほとんどないが、10節「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と弟子たちのイエスへの質問の答えは「神の国の宣教は心の頑なな人々、行いと言葉の一致しない人々には受け入れられない」の鋭い一言に尽きる。つまり「種・みことば」を「受け取る」が「神の力」を「受け入れるふり」をしながら否定するファリサイ主義に陥りうる危険を警告する。「種蒔きのたとえ」も解説もこのことを教える。弟子たちもわたしたちも「自分」を過信するならばこの危険にさらされる。単純に「見て、聴いて、理解し、神の力を受け入れて生きる」ことである。道端であろうが、石だらけの土の少ない所であろうが、茨の間であろうが、良い土であろうが、それぞれ「落ちた種」は「神の力」を「受け入れ」て「自力」ではどうにもならない厳しい条件下であっても、芽を出し花を咲かせることができる。「神の力」は「食べる人の糧」(イザヤ55:10)となる。教会が福音を実践して生きるとき神の国のしるしとなる。教会が過信せずに福音を基準にして謙遜に言葉と行いを一致させ「神の国」を受け入れて生きるなら「神の子供たちの栄光に輝く自由に」(ローマ8:21)あずかることとなる。これは隣人を大切にする自由であり、隣人とともに神体験する。おそらく13章19-23節にはマタイ福音書と同時期の成立とされるエズラ記(ラテン語版)8章41節の「農夫が地に多くの種を蒔き、多くの苗を植えるが、時が来ても、蒔かれたものがすべて無事に芽を出すわけではなく、植えられたものがすべて根づくわけでもない。それと同じく、この世に蒔かれた人々がすべて救われるわけではない。」と共通のイメージが下地にあるようだ。
 「自分」を過信することなく「神の力」を受け入れ、謙遜に「神の道具」となって必ず神の国の幸いは実現するという希望が大切である。「神の国はすでに始められたが、まだ完成されていない。」これがイエスによりわたしたちに届いた福音である。



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