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2020年7月5日 年間第14主日「神への感謝の祈りの準備」

fr.田中信明OP

朗読:.璽リヤ9:9-10、▲蹇璽8:9、11-13、J_察Д泪織11:25-30

マタイ11:25-30は、〃室┐鰺燭┐討ださった父への感謝、父と子について、イエスのくびきを負いなさいとの招きの三部からなる。神の招きへのこたえはイエスを介して感謝の祈りのうちに結ばれる。三つの点を強調したい。

一)なぜイエスは父(アッバ)である神に感謝するのか
25節「知恵ある者や賢い者」は、ファリサイ派、祭司長たちや律法学者たちを示す。つまり、イエスの時代に社会的・宗教的権力を振り回し、排除された貧しい人々を軽蔑し、神の啓示の管理者、解釈の専門家であると自負していた少数者集団である。「幼子のような者」「小さい者たち」とは、幼児、子ども、未成年者、未熟者などの意味がある。「単純」で、誰かのささえを必要とする者である。マタイにとって、貧しい人々、飢えた人々、苦しむ人々、罪人と呼ばれる人々、飼い主のいない羊、子どもたち、排除された人々は「民の中の貧しい人々」であるが、神の啓示が第一に知らされる人々である。神は困難な状況にある人々に語りかけられる。すると特権的に神の啓示を管理していると自負している者たちはどうなるか。根本的な問いかけである。神は人間の諸価値や規範を揺るがす。すべては自由で無償の神の愛から始まる。だからイエスが感謝の祈りを父(アッバ)である神にささげるのである。

二)父と子について
27節「子」は25節の「幼子」「小さい者」とは異なる語で「神に愛される神の子イエス」を意味する。「父」「子」「子が示そうと思う者」の関係・交わり・交流・共同体は底流に「自由」と「愛」がある。すべては父の「御心」なのである。「父」と「子」が一つとなる交流に「子が示そうと思う者」であるわたしたちが招かれるが、一足飛びに父に繋がるのではなく、「子」に知られ「子」を知ること、信じること、つまりイエスとわたしたちの交流・共同体「神に呼ばれた者の集い」である教会が必要である。そして、わたしたちもイエスと同じく神を父(アッバ)と呼びかけることができる。すべてはこの教会「わたしがある、ゆえにわたしたちがある」場でいただく。

三)イエスの軛(くびき)を負いなさいとの招き
28-30節は「わたしのそばに来なさい、無学な者たちよ、学び舎で時を過ごしなさい。なぜ、いつまでもそのままの状態でいるのか。お前たちの魂は激しく渇いているのに。わたしは口を開いて語ってきた、知恵を得るには金はかからないと。軛の下にお前の首を置き、魂に教訓を教え込め。知恵はすぐ身近にある。目を開いてみよ。わずかな努力で、わたしが多くの安らぎを見いだしたことを。」シラ51:23-27やイザヤ29:14、知恵の書10:21などに見られる「隠された知恵」思想に由来する。「知恵の正しさは、その働きによって証明される。」(マタイ11:19)と既にイエスを神の知恵と解釈し、擬人化された知恵が与える「軛」や「安らぎ」は実はイエスによって与えられる。人に仕え「高ぶることなく、ろばに乗ってくる」(ゼカリヤ9:9)メシアの生き方をまねることである。


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