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2020年6月28日年間第13主日「同行者」

fr.田中信明神父

朗読:[鷁Σ4:8-10,14-16、▲蹇璽6:3-4,8-11、福音マタイ10:37-42
 
司祭になろうと考えていた頃のある夜、母とふたりになったとき、「神父になりたい」と告げると、「わたしは、あなたが何をしたいか、おおよその見当はついてるよ。お腹で おへその緒でつながっていた頃からのおつきあいだから」と微笑みながら言われ大変驚いた。「わかっているの、わかっているの、応援しますよ。自由だよ。」と言うことだった。かつて高校1年生の冬、やはり母は「わたしはあなたが最近どこへ出入りしているか知ってるよ」と教会の高校生会に参加していることを見抜いていた。後日、父に話した。「お坊さんになるのならわかるけど、神父さんになるのはわからないな。でもD神父さんを見ていたら崇高な聖職だということはわかる。自由だよ。」と。両親からそろって「自由」 を与えられた。父は町の神社や寺の世話人だった。帰省したとき、D神父さんを家に招いて食事をすることが何回かあったりして、わたしがいない時も仲良くしていた。それが今から35年前の1985年1月3日の渋谷教会での司祭叙階式へと結ばれた。当日、両親は聖堂の前の方の席で式の間中、手を合わせていたのを思い出す。
マタイ10章37節「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。」手元の新約聖書ギリシア語辞典で調べると、よりもは、以上の、まさる、上に、越えて、の意味である。ふさわしいは、元来は天秤のはかりを下げることから、重さがある、価値がある、適当な、当然である、しがいがある、〜するに足る、の意味である。さらに、38-39節で「また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」と続き、ふさわしくないが合わせて三回繰り返されることから、(イエスへの信仰か肉親への情か二者択一を迫る。信仰者には自然的血縁的人間関係を主体的に切るという決断が要求され、天の父の意志を行うものをすべてわけへだてなくきょうだいとして得る道が開かれる)との解釈があるが、家族との「かかわりを切る」ことは考えられないから、何かしっくりしない。むしろ、わたしのように家族がキリスト信者でなくても良い関係と家族のささえがあれば、キリストと同じ方向を歩む道行ができるのではないだろうか。ローマの教会への手紙6章3節にあるように「洗礼」は「キリストの中に沈められること」であり「その死の中に沈められること」である。つまり「キリストと同じ方向を向いて同じ道行を歩むこと」。道中キリストの受難と十字架に連なるになうべき十字架もあろう。そうであっても肉身との絆を切ることではなく、完全な自由において肉身「よりも・を越えて」キリストを「とも」とする選択によって「風景の変容」が内的促しによって生じる。それをアイノタメのメタノイア(回心)と言ってもいいだろう。今までの風景に留まっていることができなくなる新しい・喜ばしい風景が与えられ、肉身とのかかわりの風景もよりふさわしく変わる。だから、42節「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さき者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」おのずといのちを運ぶ者をありがたく受け入れる。「世を裁くためではなく、救うために来られた方」はあらゆる関係の基(もとい)にあるいのちの絆を切ることではなく、「へその緒」を切って「自由」を与え独立させ、同行者としてくださる。


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