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教会・エウカリスチア・ミサの「つどい」 

主任司祭 fr. 田中信明OP

新型コロナCovid-19の犠牲となった全世界の多くの方々とご家族にお悔やみ申し上げ、また現在闘病されている方々の回復を、お祈りいたします。

2月26日の灰の水曜日に始まり、およそ4ヶ月間、3月1日の日曜日から教会は東京教区菊池大司教の「公開ミサの中止」の公示に基づき「教会を閉鎖」しています。したがって、ミサをはじめ一切の活動も休止の状況であることはご承知の通りです。霊的な飢えや渇きのご心配の中皆様のご協力に感謝申し上げます。

6月10日付で「6月21日からの教会活動の再開に向けて」大司教より公示がありました。しかし、すぐに元に復帰することはできません。慎重に歩みを進めていかなければなりません。いろいろな点で配慮が欠けているところがあろうかと思いますが、徐々に、段階的に教会の歩みを進めてまいりたいと考えておりますのでご理解をお願いいたします。

行動自粛が不可欠となり、カテドラルでの「聖香油のミサ」、毎月の司祭の集まりをはじめ会議や集まりは中止となりました。教区の行事も中止・延期の状況です。6月21日に予定されていた三軒茶屋、瀬田教会との「玉川通り宣教協力体」の合同堅信式も中止です。教会の年間行事予定も計画を立てられない状況です。これらの痛みをともにいたしましょう。しばらくの間、小さなお知らせをお伝えすることだけになりますがご理解をお願いいたします。

わたしは、全世界のドミニコ会の多数のきょうだいたち(司祭・修道者・修道女・観想修道女・信徒)が犠牲になったことを知りました。何人かは良く知っております。大変「不条理なこと」と考えています。 修道院では「三密」を避け、「教会の祈り」はしばらくの間個室で、そして今は聖堂の内陣で続けております。食卓は間隔をとり、沈黙を基調としています。日毎のミサをわたしは3階の小さな聖堂で捧げております。皆さんとご一緒できないミサの辛さがわかりました。今まで、キリシタン迫害時代の歴史をローマのパパさまから遣わされた宣教師を待ち望む信徒側から読んでいましたが、司祭がミサを信徒とともにできない辛さを経験し、信徒とともにミサを祝うことを待望していたことがわかりました。やっと1865年3月17日の長崎大浦天主堂でのプチジャン神父と15名ほどの信徒との「再会」の一部を追体験できたと感じています。

この間、カミュの「ペスト」「異邦人」、松本清張の「砂の器」、芥川龍之介の短編「蜜柑」そして池上彰・増田ユリヤの「感染症対人類の世界史」などを読み、インターネットで感染症に関する国内外の新聞、論文などを読んでおります。ペストは50年ほど前に読んだきりでした。現在、話の舞台であるアルジェリアのオラン教区はドミニコ会の兄弟ジャン・ポール・ベスコ司教が教区長ですから、より身近に感じながら読みました。

ペストはオランの街を隔離できましたが、コロナは便利な大量輸送・人の移動でウィルスの感染が早く拡大したようです。また、ペストは人と人の接触がある程度可能で連帯してきたようですが、コロナは「三密」を避け接触が不可能で集まりすらできません。残るのはSNSやオンライン会議をはじめとする「ことば」のツール(道具)を介在した授業やリモートワーク(テレワーク)です。

このような状況で大事なのは「ことば」です。「言うコト」と「行うコト」の一致です。この「コト」は言葉の「言」であり「出来事」です。旧約聖書の創世記のはじめに、神は言われた「光あれ。」こうして光があった。(創世記1章3節)。またヨハネ福音書の序文、初めに言があった。言は神であった。(ヨハネ 1章1節)のながめ・世界です。わたしは「言・事」コトバを「存在のコトバ」と解し、日常の言語交流を「説明コトバ」と解しています。「存在のコトバ」は「光あれ」で光が現成(げんじょう)し「言は神であった」のですが、「説明コトバ」は内容を指示しますが理解・把握すると必要がなくなるものです。わかり易く言うと、いろいろな説明書に書かれている「説明コトバ」です。PCを動かしているうちに説明書は要らなくなります。しかし、わたしたちの生きている世界はこの「説明コトバ」があふれていて雑音となり存在に響きませんから、簡単に発信したり受信したりはしますが残りません。つまり、記憶や記念の言葉にはなり得ません。コミュニケーションには便利でしょうが、ウソをついたり、前言をひるがえしたり、記憶や記録に残さずに隠蔽することに何も責任を感じません。

もっとも大事なことは、ミサで記念するイエス・キリストは「みことば」である方です。
わたしたちは「復活の神秘」をミサで記念し祝います。賛美のうちに神と祝いをともにした後すぐ「唯一の分離のない」キリストのからだをいただきます。パウロが手紙で伝えるように「キリストは頭であり、わたしたちはからだの各部分である」と伝えているからだとも結ばれます。このからだにおいて皆はひとつです。聖アウグスチヌス(354-430)が「御からだをいただくひとりひとりと皆が同時にある」と美しく表現しています。これも「言と事」の現成(げんじょう)です。罪人は回心し、聖者は微罪に触れるかもしれませんが、司祭と奉仕者は目立たない席にすわり、ある者は教会のために財産を供し、教会は必要とする者に施し、旅人が席をともにし、「一致の神秘」である復活のアガペー(神の忠実さ・愛)の力に触れ、ありがたさのうちに、誰もが「ありのままのわたし」を見出すのです。ほぼ同時代のアレキサンドリアのキュリロス(376-444)は、「皆が溶けて一つになっている」と表現しています。さらに「この一致は感謝であり同時にとりなしであり、唯一の分離のない感謝であり唯一の分離のないとりなしである」と表現しています。「言」である方がわたしたちの「事」として現成(げんじょう)しました。それを「受肉」といいます。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(ヨハネ1章14節)。キリストとの人格的(あなたとわたし)の出会いのうちに「神のおとずれ」の「言・事」を深めて歩みましょう。そのためには教会(エウカリスチア・ミサのつどい)が必要です。



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